地域の生活を繋ぐ動脈としての古道

Vol 01『 道の八景 』

金沢区の歴史を辿っていくと、鎌倉時代の鎌倉・江戸時代の江戸・浦賀等、地域の生活を繋ぐ動脈として、古道が当時から重要な役割を果たしていました。これらの古道に、特徴ある道を新たに加えて、道の八景ができました。


  • 龍昇橋

    令和六年は辰年ですが、その龍にちなんで、龍昇橋なるものを紹介します。金沢区ではないので残念ですが、朝比奈のトンネルを越えて右側にあるセブンイレブンの裏にあり、イタチ川上流部に架かる橋です。横浜市で現存する最古の石橋で、「神奈川 橋100選」の一つです。明治中期~大正4年以前に建造されたと推定されてい...
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  • 路傍の石仏

    金沢文庫駅から六国峠ハイキングコースの登り始め、左側のフェンス沿いに、馬頭観音、石柱(半分以上はげ落ちでいる)石仏がある。よく観察してみると「金澤八村」「小泉」の文字が読み取れる。天保十一年 文化十二年と刻まれている。現存する石仏の約80%位は江戸時代に制作されたものと言われているが、この時代には...
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  • 鎌倉幕府が六浦と鎌倉を結ぶ六浦道を開通させるために、山を切り開いてつくられた道路です。

    朝夷奈切通

    仁治ニ年(1241)に工事が着手されたと記録がある朝夷奈切通は、鎌倉幕府が六浦と鎌倉を結ぶ幹線道路(六浦道)を開通させるために、山を切り開いてつくられた道路です。 金沢・六浦は風浪を防ぐ良港だったため、鎌倉幕府の外港として、物流の拠点となりました。六浦や釜利谷で製塩が始まると、朝夷奈切通を通って、鎌倉...
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  • 「浦賀街道は平分村より三浦郡浦郷村に達す」と『新編武蔵風土記稿』に記述があります。

    浦賀道

    「浦賀街道は平分村より三浦郡浦郷村に達す」と『新編武蔵風土記稿』が述べているように、この道は六浦から浦郷を経て、浦賀に向かう古い街道です。(平分村とは現在の三艘・及び瀬が崎の大部分を指します。) 江戸幕府は、江戸湾に入る船舶を管理するため、元和2年(1616)下田に番所を設けましたが、風波の難が多いの...
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  • 中世の代表的古道である六浦道は、文字通り、鎌倉と六浦津とを結ぶ道でした。

    六浦道(鎌倉道)

    元来この道は鎌倉幕府の軍事的、経済的意図の基に開かれた幹線道路です。 金沢は、地理的・軍事的に鎌倉の搦手に位置しており、房総半島との交通の要・外港として重要な拠点でした。 注)文章の引用・参照元:横浜市サイト「歴...
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  • この道は少なくとも鎌倉時代中期には開かれたと思われます。

    白山道

    白山道がいつ開かれ、いつ頃から白山道と呼ばれるようになったか明らかではありません。しかし、この道は少なくとも鎌倉時代中期には開かれたと思われます。 注)文章の引用・参照元:横浜市サイト「歴史色づく横浜金沢」
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  • 野島道

    町屋神社から金沢小学校を経て、野島に至る道が野島道です。野島は船路による三浦半島への交通路として便利な道でした。 幕末に至り、相次ぐ異国船の襲来に対応して、三浦半島一帯に、諸藩の配置を命じました。これらに伴い、三浦半島への諸往還は、頻繁に利用されました。 注)文章の引用・参照元: Comming soon

  • 東海道保土ヶ谷宿から、能見堂を経て金沢へ至る道を金沢道と呼びます。

    金沢道(保土ヶ谷道)

    江戸市民にとっての身近な行楽地、金沢八景へのコースとして、万治2年(1659)刊行の『鎌倉物語』は次のように述べています。 「江戸より見物せんと思う人は、先かたひらより金沢へ来て、鎌倉へ行ば見物の次第よきなり」 つまり、金沢八景を鎌倉・江の島とセットにして位置づけています。 景勝の地としてのピークは、文...
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