釜利谷学校騒動
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釜利谷学校騒動

『釜利谷学校騒動』は大正12年9月1日の関東大震災に始まったのです。死者こそ出なかったものの、学校が全部倒壊し、そしてそれが3年間にも及ぶ長い騒動の始まりでもありました。

時代的背景もあり一村一校は行政及び教育の合理化に必要不可欠であり、倒壊した釜利谷小学校と六浦荘村の三分小学校を合併して新しい小学校を新設する案がもちあがりましたが、それに猛反発したのが釜利谷村民でした。一時は村民700名集合、こん棒、竹やりの騒ぎと当時の横浜毎朝新聞は大きく報道しています。

その後は非公認の私学校(注)を建てて抵抗しました。その結果私学校を閉鎖し、釜利谷分教場として尋常科三年までを存続とするということで解決しまた。


(注)この私学校を第2分教場、正規村立の学校を第1分教場と区別呼称しまた。但しこれは六浦本校側においてでありました。尚、皆、納得するまでは第1分教場への通学する児童は1人もいなかったと言われています。この学校騒動が単なる住民エゴイズムではなく釜利谷村民の素晴らしい郷土愛のあらわれと私は考えています。

①大正15年1月19日『村民700集合 棍棒竹槍の騒ぎ』 横浜毎朝新報より
②大正15年2月25日『村税不能同盟』 横浜毎朝新報より

③大正15年6月4日『遂に村民14名を検束』 横浜毎朝新報より
④昭和4年2月26日『六浦荘の学校騒ぎ 五年越しで解決』




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