大道
金沢区の産業の歴史を地域の特色とともにご紹介します。
今、交通の激しい道路は昔、田の畔のような細い道でした。その両側には、山のすぐ下まで田んぼが続いていてお米が作られていました。
野菜を創る畑が欲しくて、小作人(地主から土地を借りて田や畑を耕す人)は、田んぼをたくさん借りたそうです。畑は田んぼの広さに応じて貸してもらえました。
山のすぐ下には、大きな沼や池が作られ、水が溜められていて、その中でウナギが育ったりしていました。
三艘や川地区の塩場へ、塩づくりの作業員として働きに出る人もいましたが、戸数が少なかったため、農業の暇を見ての仕事だったようです。
明治33年ごろになると、洲崎町の山口藤五郎さんが、トマト、アスパラガス、サラダ菜、パセリ等の西洋野菜を栽培しはじめ、このあたり(大道)でもその中のいくつかを創り始めたようです。タマネギの栽培もこの頃急に増え始めました。
これらの野菜類は、船越(横須賀市)の市場まで運んでいきました。それは学校から帰ってきた高学年の子供たちの仕事になっていたようです。親たちがリヤカーなどに荷造りしておいたものを、何人かで組をつくって引いて行きました。そのため市場は午後4時から始まったようです。
畑に麦をまいた後の12月から米作りの始まる春までの間は、山仕事をしていたようです。主に薪づくりや、山を持っている人は木を育てることを仕事にしていました。