源範頼と太寧寺
遠江国蒲御厨に生まれたことから「蒲冠者」と呼ばれた範頼は頼朝の弟にして義経の兄。
源平の戦いでは、頼朝の挙兵に応じて義経とともに軍を率いて上洛し、木曾義仲を討った。さらに一の谷、壇ノ浦の戦いで平氏を破り、九州に遠征したが、謀反の疑いをかけられ、1193年、伊豆の修善寺で頼朝側に殺された。
碑文によると、梶原景時に攻められた範頼は火を放って自害。灰の中から首は見つけ出され、頼朝の見分の上埋葬された。太寧寺の寺伝では、鉈切りまで逃れて、海に向かって建つ太寧寺に入って自害されたとされている。
太寧寺は、はじめ(現、関東学院大学附属小学校地内)にあったが、昭和18年、軍の飛行場建設の為に片吹に移転した。また、太寧寺の名は、範頼の法名から付けられたもので、寺には位牌や画像などが寺宝として遺されている。悲しき流転の道を歩かなければならない範頼を象徴している様に思えるのは私だけだろうか?