December 5, 2018
Category - 歴史
金沢区のうつりかわり
武蔵の国から金沢区と呼ばれるまで。
鎌倉時代、神奈川県金沢区は武蔵の国(武州)とよばれていた。この武蔵の国の中に、21の郡があり、その中の一番南の久良岐郡に金沢区は含まれていた。この範囲は、今の南区、港南区、西区、中区、磯子区、金沢区にあたる。
鎌倉時代の武蔵の国は、源頼朝の死後、将軍家の母方の親類の立場を利用して、北条氏が権力を握り、その一族を要所におき、治めていた。
元弘3年(1333年)北条氏が滅び、時は移って天正18年(1590年)小田原城が豊臣秀吉によって攻撃され、北条氏が滅び、徳川家康が江戸に入ると、武蔵の国は急速に発展した。
江戸時代中頃からは、金澤にも六浦(米倉)版が置かれた。明治初年の廃藩置県によって、最初は六浦県といったが、間もなく神奈川県と合併した。金沢区がふくまれる久良岐郡は、相模国と一緒になり、神奈川県に属した。
明治22年、市町村制がしかれ、富岡、柴、谷津、泥亀、寺前、町屋、洲崎、野島のハヵ村が合併して金沢村となり、三分村(平分村、寺分村、社家分村)と釜利谷府(宿村、坂本村、赤井村)が合併して六浦荘村となった。(のち明治30年、今の朝比奈町が六浦荘村に入った。)
昭和11年(1936年)に神奈川県横浜市磯子区とよばれるようになり、現在のような金沢区として独立したのは、昭和23年のことである。